NAS

  • アメリカのアフリカ系ヒップホップ・アーティスト。1973年生まれ。
  • 90年代を代表するヒップホップ・アーティスト。特にデビュー盤の「イルマティック」が有名。
  • 2000年代後半は影響力が落ちている。
  • 代表作は「イルマティック」「イット・ワズ・リトゥン」「スティルマティック」。

1
ILLMATIC

1994年。ナズはアメリカ、ニューヨーク出身のヒップホップ歌手。男性ソロ・アーティストでは、90年代ではナズとジェイ・Zがヒップホップの2大巨頭となっている。このアルバムはヒップホップの名盤を挙げる際に必ず上がり、アーティストの好き嫌いにかかわらずヒップホップ・ファン全員が聞くような作品である。このアルバムが名盤とされる理由は主に3つあるが、歴史的に重要な点はヒップホップのメジャー・シーンではなくアンダーグラウンドを記録していることだ。メジャー・シーンとはレコード会社が制作費をかけて凝ったサウンドを作り、「娯楽としての音楽」のイメージが残っているサウンドとアーティストである。他の2つはプロデューサーに大物が揃っていること、滑舌や言葉選びを含むナズ自身の歌唱力であるが、この2つは他の名盤群にも見られる要素だ。アフリカ系アメリカ人の日常を書いた歌詞などはそれこそ多数のアルバムで再現されているので、特に取り上げるほどのことではない。このアルバム以前のヒップホップはエンターテイメント性とファッションを重視する傾向にあり、(実際のアフリカ系ヒップホップ・ファンの多くが低学歴、低収入だったにもかかわらず)知名度の高いアーティストは高学歴のインテリが多かったというのも背景にある。つまり娯楽音楽としてのヒップホップとファンの現実が乖離していたということだ。「イルマティック」はアフリカ系アメリカ人の現実を反映したアルバムだとも言える。同様のことはロックの世界におけるニルヴァーナの「ネヴァーマインド」にも言える。両方が90年代前半に出ているのは、大きな時代の流れに沿った結果ではないか。アナログ盤をベースにしているので10曲で39分。プロデューサーはギャング・スターのDJ・プレミア、メイン・ソースのラージ・プロフェッサー、ア・トライブ・コールド・クエストのQ・ティップ、ピート・ロックなど。Q・ティップとピート・ロックはジャズ風。「メモリー・レーン」のスクラッチはすぐにDJ・プレミアだと分かる。メロディーや楽器で大きな特徴を出していないのが逆に評価を高くした。全米12位、100万枚。

2
IT WAS WRITTEN

1996年。曲の下地にサンプリングを使った曲とキーボードの回帰メロディー(ループ)を使った曲があり、一般的なヒップホップのアルバムの体裁になっている。ドクター・ドレーがプロデューサーで参加している。「イフ・アイ・ルールド・ザ・ワールド」はフージーズのローリン・ヒルが参加し、メロディアスな曲になっている。「ストリート・ドリームス」はユーリズミックスの「スウィート・ドリームス」をサンプリング。全米1位、200万枚。

3
I AM...

1999年。オープニング曲をはじめ、バックのサウンドが多彩になった。「ヘイト・ミー・ナウ」はオルフの「カルミナ・ブラーナ」のメロディーを使っている。パフ・ダディが参加。「フェイヴァー・フォー・ア・フェイヴァー」はスカーフェイスが参加。「ユー・ウォント・シー・ミー・トゥナイト」はアリーヤが参加。歌詞の内容もヒップホップ・アーティストに関連したものが多くなり、「イルマティック」のころとは状況が変化している。全米1位、200万枚。

4
NASTRADAMUS

1999年。これまでのアルバムの特色をバランスよく取り入れたアルバム。バックが華やかな曲とキーボードの回帰メロディーを使う曲、ゲストを招いた曲、有名曲のサンプリングを使う曲など、何かが極端に片寄るようなところはない。「ファミリー」はモブ・ディープが参加。「ニュー・ワールド」はTOTOの「アフリカ」をサンプリング。他の曲ではジェイムス・ブラウン、オハイオ・プレイヤーズ、スタイリスティックスも使っている。コーラスに女性を使うことも多くなった。全米7位、100万枚。

5
STILLMATIC

2001年。デビュー・アルバムの「イルマティック」を意識したタイトル。「イルマティック」のころと、「スティルマティック」までの間に起こっている出来事について書いている。大きく分けて3つに分かれ、「イルマティック」の時の自分の状況、ジェイ・Zやパフ・ダディについて考えるところ、米同時テロに対する主張になる。「ルール」「ホワット・ゴーズ・アラウンド」はアメリカ批判。「リワインド」は麻薬を使ったときの状態をヘビーメタルで表現している。かつてウィリアム・バロウズが「ノヴァ急報」で使った表現に似ている。全米5位、100万枚。

6
GOD'S SON

2002年。サウンドが人工的で涼しくなり、幅も広がっている。「アイ・キャン」はベートーベンの「エリーゼのために」を使っているので多くのファンが意外性に驚く。「ザグズ・マンション」もアコースティック・ギターがあまり使われないジャンルなので、これも新鮮だろう。これまでとは雰囲気が異なるジャケットで、デザインがシンプルだ。より多くのファン、すなわちヒップホップ・ファン以外のファンを獲得するには、そうした人がヒップホップに抱く抵抗感をなくす必要がある。その試みの2、3の例としてサウンドの変化がある。変化と言うよりは意表をついた形だ。「ザ・クロス」はエミネムがプロデュース。全米12位、100万枚。

7
STREET'S DISCIPLE

2004年。2枚組アルバム。1枚目は12曲で41分、2枚目は14曲で49分。ナズの父親であるオル・ダラが参加した曲があるが、「ブリッジング・ザ・ギャップ」の基本メロディーに使われているのはボ・ディドリーまたはヤードバーズの「アイム・ア・マン」ではないか。ナズと父親が共演をして、そのタイトルが「ギャップを埋める」というのは、世代間ギャップとジャンルのギャップを掛けている。「ユー・ノウ・マイ・スタイル」はランDMCの「ジェイ・マスター・ジェイ」をサンプリング。引用する曲はポップス、ソウルを中心に広い。バスタ・ライムスは一発で分かる迫力。リュダクリスが参加。全米5位、100万枚。

 
STREET'S DISCIPLE II:FOURTEEN SONGS

2005年。「ストリート・ディサイプル」から15曲を選び、1枚に収めたアルバム。ほぼ順番通りだが入れ替わっている曲もある。

8
HIP HOP IS DEAD

2006年。ヒップホップは死んでいるというタイトルになっているが、ここでいうヒップホップとはニューヨークのヒップホップであるようだ。死んでいるというのは、影響力がなくなったということらしい。すなわちヒップホップの世界で、ナズの与える影響がなくなっているということを言っている。それはここ数年のアルバム売り上げ枚数でも明らかで、ギャングスタ・ラップやサウスの方が圧倒的に売れている。こうしたタイトルをつけることによって、「本当の」ヒップホップはナズだ、と言いたいのならば、勘違いもいいところだ。ヒップホップがニューヨークで生まれたからといって、いつまでもその地のヒップホップが最先端でないのは当たり前だ。時代の雰囲気や斬新なサウンドによって常に最先端は変わる。売り上げ枚数がすべてではないが、ナズが売り上げ枚数において低迷しているのは、ナズがいわゆる正典(カノン)を妄想し、それに拘泥したからである。ナズのアルバムはこれまで多少のサウンドの変化は見られた。しかし、驚くような変化ではなかった。枚数を重ねているうちに、それがつまらなさにつながるのである。個々のアルバムは質が低いわけではない。だから、出せばある程度の評価は得てきた。ただ、ナズに求められるレベルは、他のアーティストよりも高い。年々下がる影響力について、かなりレベルの低い訴え方をしてしまったと言える。根本的に考え方を転換しないと明るさは見えないのではないか。アルバムタイトル曲では前作に続いてインクレディブル・ボンゴ・バンド(アイアン・バタフライ)のイン・ア・ガダ・ダ・ヴィダをサンプリングしている。全米1位、100万枚。

GRATEST HITS

2007年。ベスト盤。

9
 

2008年。邦題「無題」。タイトルが無題になっているのは、ニガーというタイトルを断念したからだという。歌詞がアフリカ系に向けたメッセージであり、白人に向けたアフリカ系からのメッセージであり、自ずから社会性が高いアルバムになる。「ブラック・プレジデント」はアメリカ大統領になる前のバラク・オバマの演説が使われている。メッセージを重視したい意図は理解できるが、通常の方法ではもはや影響力がほとんどなくなりつつあることを知っているからこそ、「無題」あるいは「ニガー」という話題作りをしたとも言える。サウンド上は目を引くところは少ない。

DISTANT RELATIVES

2010年。ボブ・マーリーの子ダミアン・マーリーと協演。多くの曲がバンド編成によって演奏される。通常のバンド演奏に比べパーカッションが多いが、レゲエが多いわけではない。ダミアン・マーリーが歌う部分はメロディーがつき、ナズはラップで歌う。ダミアン・マーリーのアルバムにナズが全面的に参加し、曲の趣旨に合わせてナズが詞をつけている。ジャケットの中央にアフリカが描かれており、ラスタファリズム、アフリカ回帰志向がある。

10
LIFE IS GOOD

2012年。ラン・DMCやパブリック・エナミーほど知識人視点ではなく、ア・トライブ・コールド・クエストほど(アフリカ系社会内部での)中産階級的趣味ではなく、アレステッド・ディヴェロップメントほどアフリカ回帰ではなく、かといって多数のヒップホップ・アーティストほど現世志向にもならず、アフリカ系社会からの客観的視点がナズの歌詞の特徴であった。このアルバムでは私的内容が増えており、個人のありように没入する意識のない聞き手には、それ以上のものを見出しにくいだろう。ナズのアルバムの中では内容のぶれ幅においてひとつの極をなしている。もちろん社会的な歌詞にも幾分の私的要素はあり、それを含めないことは難しい。しかし、このアルバムは私的要素が主となるほど多く、それほどナズの心境に大きな影響があったと解釈できる。サウンド上は歌を重視した曲が多いが「ザ・ドン」は異様な雰囲気がある。「クイーンズ・ストーリー」の後半に出てくるピアノはショパンの「革命」。