RAMONES

  • アメリカの代表的なパンクバンド。4人編成。イギリスのパンクバンドとともに、パンクの先駆けとされる。
  • メンバーは全員ラモーンを名乗る。デビュー時はジョーイ・ラモーン、ジョニー・ラモーン、ディー・ディー・ラモーン、トミー・ラモーン。
  • デビュー盤の「ラモーンズの激情」がパンクの歴史的名盤とされる。「エンド・オブ・ザ・センチュリー」はフィル・スペクターがプロデュース。
  • 80年代は低迷期とされる。96年に解散。90年代以降は再評価されている。
  • デビュー時の4人は全員死去。
  • 代表作は「ラモーンズの激情」、代表曲は「電撃バップ」「シーナはパンク・ロッカー」「ティーンエイジ・ロボトミー」「ゆっくりしたいぜ」「ピンヘッド」「ドゥ・ユー・ウォナ・ダンス」等。

1
RAMONES

1976年。邦題「ラモーンズの激情」。ビートルズ以来、白人が大量流入したことによって衒学的、技巧的になったロックにアマチュア的サウンドで登場し、ロックへの参入障壁を大きく取り払った。うまく演奏できるように練習し、うまく歌えるように訓練を受け、ブルースやソウルや偉大なポップスに影響を受けていることを恭順と見なすことはイギリスのパンクと同じだが、破滅的ではないところがイギリスとの違いだった。オープニング曲の「電撃バップ」はジャンルを超えて有名。「チビに一発」はキンクスやモータウンの影響があるだろう。「53番通り」はニューヨークの男娼街。「トゥデイ・ユア・ラブ」はナチに対する若年大衆層の浅はかな関心を示す。「レッツ・ダンス」はクリス・モンテスのカバー。14曲で29分。

2
LEAVE HOME

1977年。メロディーに起伏が出て、ボーカルにビブラートがかかるようになった。各楽器もはっきり聞こえるようになり、ボーカルとともに演奏能力が上がっているように見える。作曲の中心がボーカルのジョーイ・ラモーンとベースのディー・ディー・ラモーンになり、ギターとドラムは単独で作曲する曲がない。ギターが作曲に関わると2分以下となり、ボーカルが関わると60年代風メロディーになるなど、メンバーの個性が明確になっている。「アイ・リメンバー・ユー」「オー・オー・アイ・ラブ・ハー・ソー」「スワロウ・マイ・プライド」は60年代前半から半ばのガール・グループ、ポップスの影響がありありだ。14曲で30分弱。

3
ROCKET TO RUSSIA

1977年。ポップなロックンロールとサーフィン、ホット・ロッドに影響を受けた曲が増えた。「ロッカウェイ・ビーチ」「シーナはパンク・ロッカー」「ラモーナ」はサーフィン、ホットロッドの曲調で、ビーチ・ボーイズよりもジャン&ディーンに近い。「ドゥ・ユー・ワナ・ダンス」はボビー・フリーマン、ビーチ・ボーイズのカバー。「ハッピー・ファミリー」収録。14曲で32分弱。

4
ROAD TO RUIN

1978年。ドラムが交代。オープニング曲は勢いをつける曲ではなく、3分を超える曲が初めて収録され、アコースティックギターを使うなど、これまでとは異なるアルバムにしようという意思が見える。ギター1人ではライブで再現できない曲も増えている。「ゆっくりしたいぜ」はボーカルのジョーイ・ラモーンが主導した曲だろう。「ニードルズ&ピンズ」はサーチャーズのカバーで、アコースティックギターを使う。12曲で31分。

IT'S ALIVE

1979年。ライブ盤。アナログ盤は28曲、CDは20曲収録。1分台が13曲、7曲が2分台。ほとんどの曲は間髪入れずに次の曲に移る。

5
END OF THE CENTURY

1980年。フィル・スペクターがプロデュースし、60年代の豪華なサウンドを「思い出のロックンロール・ラジオ」で再現する。ロネッツの「ベイビー・アイ・ラブ・ユー」はストリングスも入る。「ロックンロール・ハイスクール」は60年代のポップなロックンロール風。「チャイニーズ・ロック」「レッツ・ゴー」「ディス・エイント・ハヴァナ」「オール・ザ・ウェイ」は従来のラモーンズのロックンロール。これらの曲でもフィル・スペクターがポップに聞こえるように手を加えている。「ジャッキー・アンド・ジュディー」はドラムが中心。フィル・スペクターはサウンドに大きく介入する曲と少し手を加えるだけの曲を切り分け、ラモーンズが持っているポップさと勢いのよさをうまく強調している。

6
PLEASANT DREAMS

1981年。10ccのグラハム・グールドマンがプロデューサーとなり、適度にポップなサウンドとなっている。ギターの電気的歪みは少なく、キーボードを使い、ボーカルメロディーがはっきり聞き取れる。この時期の流行であるニューウェーブに近くなり、パンクの面影はあまりない。12曲のうち7曲をジョーイ・ラモーン、5曲をディー・ディー・ラモーンが、それぞれ単独で作曲している。「セブン・イレブン」は60年代ポップス風。「カモン・ナウ」はキーボードがメロディーを主導する。オープニング曲の「ロックンロールでNo.1」はバンド側の願望と焦りがうかがえる。「ザ・KKK」はクー・クラックス・クランを批判する曲。

7
SUBTERRANEAN JUNGLE

1983年。ドラムが交代。ドラムがエレキドラムになったが、曲の勢いが復活し、ギターも十分にロック風だ。メロディーはポップ。オープニング曲から2曲続けてカバーなので、作曲意欲がかなり落ちていたと推測できる。「タイム・ハズ・カム・トゥデイ」はチェンバース・ブラザーズのカバー。

8
TOO TOUGH TO DIE

1984年。曲の前に「1、2、3、4」とカウントする曲が多く、デビュー当初を思わせる。アップテンポの曲が大半で、ポップなメロディーの曲は少ないので、「ラモーンズの激情」「リーブ・ホーム」のころに戻ったと言える。ただ、多くの曲をディー・ディー・ラモーンが作曲し、ジョーイ・ラモーンの曲はギターのジョニー・ラモーンよりも少なくなっているので、バンドとしては本調子ではなかっただろう。1分弱のインスト曲は次の曲へのイントロのようにも聞こえる。キーボードは若干だが使われ、ニューウェーブ風味を残している。

9
ANIMAL BOY

1986年。ディー・ディー・ラモーンが12曲のうち9曲の作曲に関わり、曲調も豊かだ。「ラブ・キルズ」「イート・ザット・ラット」ではボーカルもとっている。ギターのジョニー・ラモーンが作曲に関わった3曲だけがいずれも1分台で、パンクらしさを最も残しているメンバーだ。「シー・ビロングス・トゥ・ミー」「クラミー・スタッフ」「サムシング・トゥ・ビリーブ・イン」はシンセサイザーを使ったヒット性の高い曲。「ハンギング・アップサイド・ダウン」は米大統領のレーガンがドイツのナチス関係者墓地を訪問したことを批判する曲。「サムバディ・プット・サムシング」収録。

10
HALFWAY TO SANITY

1987年。ディー・ディー・ラモーンが大半を作曲し、一部でボーカルもとり、ジョニー・ラモーンがディー・ディー・ラモーンとともに短い曲を作り、ジョーイ・ラモーンが単独で3曲だけ作曲。アルバムの制作方法は前作とほとんど変わらない。「ゴー・リル・カメロ・ゴー」はブロンディのデボラ・ハリーがコーラスで参加している。プロデューサーが作曲に関わった「アイ・ウォナ・リヴ」と「ガーデン・オブ・セレニティ」はイントロが似ており、ラモーンズと同じニューヨーク出身のブルー・オイスター・カルトを思わせる。「アイム・ノット・ジーザス」はラモーンズで最もハードコア寄りの曲。ドラムのリッチー・ラモーンが作曲している。「バイ・バイ・ベイビー」は明快な60年代風ポップス。

RAMONES MANIA

1988年。ベスト盤。シングルのみの曲やバージョン違いの曲を5曲含む計30曲収録。時系列ではなく、ランダムに並んでいる。「インディアン・ギヴァー」は1910フルーツガム・カンパニーのカバー。「ロックンロール・ハイ・スクール」はアルバム未収録曲で、サーフィン、ホットロッド風。

11
BRAIN DRAIN

1989年。ドラムが交代し、マーキー・ラモーンが復帰。ディー・ディー・ラモーンはベースを弾いていない。ディー・ディー・ラモーンが作曲に関わった6曲は全て共作で、これを含めて12曲中9曲はメンバー以外の共作者がいる。ジョニー・ラモーンは作曲に関わっていない。バンドの状態が悪かったことをうかがわせる。「パリセイズ・パーク」はフレディ・キャノンの「恋のジェット・コースター」のカバー。

LOCO LIVE

1992年。ライブ盤。ベースが交代。

12
MONDO BIZARRO

1992年。邦題「モンド・ビザーロ(狂った世界)」。12曲のうち3曲はディー・ディー・ラモーンが「ブレイン・ドレイン」のときに作った曲。7曲をジョーイ・ラモーンが作曲し、2曲をマーキー・ラモーンが作曲している。ディー・ディー・ラモーンが残した曲を含め、全体に曲のレベルが高く、ジョーイ・ラモーンの表現力も上がっている。ベースのC.J.ラモーンは2曲でボーカルもとる。「チャンスはつかめ」はドアーズのカバーで、原曲に忠実なキーボードが入っている。「あの娘はどこへ」はホリーズをロックで演奏したような曲。「キャビーズ・オン・クラック」のギターソロはリビング・カラーのヴァーノン・リード。「ツアリング」はジョーイ・ラモーンの60年代ロックンロールの趣味を丸出しにした曲。

13
ACID EATERS

1993年。全曲がカバー曲。ロックアーティストならほとんどが知っているローリング・ストーンズ、ボブ・ディラン、ザ・フーと、60年代サイケデリック・ロックのジェファーソン・エアプレイン、ラヴ、アンボイ・デュークス、ジョーイ・ラモーンの選曲とみられるジャン&ディーン(「サーフ・シティ」)、メンバーの思い出のヒット曲とみられるクリーデンス・クリアウォーター・リバイバル(「雨を見たかい」)、トロッグス(「僕は危機一髪」)を収録。曲によってはギターを原曲に近づけて演奏しているが、キーボードが入る曲や厚いコーラスがある曲は単純なカバーになっている。「雨を見たかい」「マイ・バック・ペイジズ」は原曲をなぞらずパンク風に演奏する。日本盤はビーチ・ボーイズの「サーフィン・サファリ」を収録する。ザ・フーの「恋のピンチ・ヒッター」はザ・フーのピート・タウンゼンドが参加。

14
¡ADIOS AMIGOS!

1995年。邦題「アディオス・アミーゴス(さらば友よ)」。「モンド・ビザーロ(狂った世界)」に続きディー・ディー・ラモーンが曲を提供し、13曲のうち6曲を占める。C.J.ラモーンが4曲でボーカルをとり、単独の作曲も2曲あるため、ジョーイ・ラモーンと並ぶ中心人物となっている。80年代の後半以降、曲自体はラモーンズがやっていること以外に意義を見いだせないが、ハードコアからロックまでバランスよく揃えている。オープニング曲はトム・ウェイツの「大人になんかなるものか」のカバー。「アイ・ラヴ・ユー」はジョニー・サンダーズ&ザ・ハートブレイカーズのカバー。このアルバムで解散。

GREATEST HITS LIVE

1996年。ライブ盤。96年2月、メンバーだけでの公演。

WE'RE OUTTA HERE!

1997年。邦題「ラスト・ショウ(ウイ・アー・アウタ・ヒア)」。ライブ盤。96年8月、多数の客演を含み、ラモーンズとして最後の公演。ほとんど途切れることなく次々と曲を演奏していく。曲の始めの「1、2、3、4」がカウントよりも合いの手のようになっている。アルバム収録曲よりもテンポが速いので32曲のうち半分は1分台で終わる。23曲目まではメンバーの演奏だが、「ラヴ・キルズ」ではディー・ディー・ラモーンが参加。「ラモーンズ」はモーターヘッドのレミー・キルミスター、「53番街」「リッスン・トゥ・マイ・ハート」「ハッピー・ファミリー」はランシドの2人、「チャイニーズ・ロック」はサウンドガーデンの2人が参加。「エニイウェイ・ユー・ウォント・イット」はデイブ・クラーク・ファイブのカバーで、パール・ジャムのエディ・ヴェダーが参加。

HEY HO LET'S GO!:RAMONES ANTHOLOGY

1999年。ベスト盤。2枚組で58曲収録。ハードカバーのブックレットが付いており、長大な英語解説がある。日本盤はその完訳がついている。

RAMONES MANIA2

1999年。「モンド・ビザーロ(狂った世界)」から「グレイテスト・ヒッツ・ライブ」までのベスト盤。25曲収録。「エニイウェイ・ユー・ウォント・イット」はデイヴ・クラーク・ファイヴのカバー。日本で独自に編集され、日本のみで発売された。

ANTHOLOGY

2001年。1999年の「ラモーンズ・アンソロジー」からブックレット、長文解説を省略し、日本語によるバンド史を付けた簡略版。